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zoom RSS バンダイナムコHD中村雅哉 最高顧問「お別れの会」多くの人が遺徳偲ぶ-アミューズメント業界発展に尽力

<<   作成日時 : 2017/04/02 20:12   >>

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1970年代後半から第4次(知識)産業、第5次(情緒)産業を提唱

 「パックマン」をはじめとするゲーム機、ゲームソフトの開発やテーマパークの運営などで知られる株式会社ナ画像ムコ(現在は株式会社バンダイナムコエンターテインメント株式会社ナムコも存在)の創業者で、株式会社バンダイナムコホールディングス(HD、以下、社名の株式会社は略)最高顧問の中村雅哉氏が1月22日に逝去。「お別れの会」が3月21日に帝国ホテル 東京(千代田区)で開かれた。中村氏は享年91歳。映画制作会社、日活の事業管財人、その後、社長も務めるなど、事業家として幅広く活動しただけに、会場には多くの人が集まり、故人の業績、遺徳を偲んだ。

80年代に協会長としてゲーム機業界の課題に取組み、基礎築く

 筆者(松浦)は1980年代前半、日本工業新聞(現・フジンサケイ  ビジネスアイ)に入った当初から10年間ほど、中村氏をよく取材しました。当時、中村氏は日本アミューズメントマシン工業協会(現・一般社団法人 日本アミューズメントマシン協会)の会長としてビデオゲーム(ゲームセンターなどのアミューズメント施設に置かれる業画像務用電子ゲーム)機器業界の社会的な地位向上に尽力するとともに、それ以前から「第3次産業を知識産業としての第4次産業、情緒産業としての第5次産業に分け、その中でビジネスチャンスをつかんでいくべきではないか」と主張。88年1月にはナムコの上場も実現させるなど、実際の経営においても時代を先取りし、自らの思想を実践させてきました(右の記事は日本工業新聞に筆者が書いた記事=87年3月28日付)。
 筆者は94年に日本工業新聞を退社してフリーランスになり、中小企業、主に上場を目指すようなベンチャー企業の取材に、より一層力を入れた関係で、中村氏を取材することがなくなってしまいましたが、会場に飾られた写真や展示物、会葬御礼として配られた中村氏の語録「夢を売る男になりたいねえ 一期一会」から中村氏の経営者としての志、理念、発想を偲びたいと思います。

“Father of PAC−MAN”、ゲームプログラムの著作権にも貢献

 「昭和55年に発売され世界中で大ヒットした『パックマン』は“最も成功した業務用ゲーム機”としてギネス世界記録にも認定され、故人は海外でも“Father of PAC-MAN”として広く親しまれる存在となりました」――これは画像「お別れの会」委員長のバンダイナムコHD 石川祝男 代表取締役会長の「ご挨拶」に書かれた一文です(左の写真=ギネス世界記録の認定証)。
 筆者が日本工業新聞に入ったのは1982年(昭和57年)ですから、すでに「パックマン」は販売されていましたが、翌83年7月に任天堂が「ファミリーコンピュータ」を発売し、業務用ゲーム機に加えて家庭用ゲーム機、ゲームソフトも一気に人気を高めた頃でした。
 ただ、ゲーム機に対する社会的な批判は少なくなく、中村氏は日本アミューズメントマシン工業協会の会長として、「(ゲームの)提供の仕方に配慮しなくてはならない」と業界の姿勢を正すと同時に、ゲームそのものについて「電子技術を応用するとともに、ゲームの画面、登場するキャラクターの映像、動き、カラーなどのハイタッチの要素も欠くことができないのが特徴だ」と新しい産業である点を強調。コンピュータを使ったゲームプログラムに関する著作権の制定にも取り組んでいました。

いち早くハイタッチとハイテクの「より良き関係」を研究、財団設立

 この「ゲームが新しい産業でハイタッチ(High touch=人間的反応)の要素も欠かせない」という考え方をもとに、中村氏は86年末にハイタッチとハイテク(High tech)の「より良き関係」について研究するニューテクノロジー振興財団(現在は公益財団法人)を設立しています。こうしたところに第4次産業、第5次産業という発想と併せ画像て、アミューズメントを大きな観点から捉(とら)える中村氏の思想があるように感じます。
 その第4次産業、第5次産業について、中村氏から初めて聞いたのは、実は日本工業新聞に入る前のことです。日本工業新聞に入る前、筆者は(日本工業新聞よりは)小さな新聞社にいましたが、経済同友会を取材していました。その同友会の事務局の人が「新しいタイプの経営者」として紹介してくれたのが、中村氏でした。
 「夢を売る男になりたいねえ」の中に次のような文があります。
 〜経営者としての自信〜 『経済同友会に入会が許された。非常に嬉しい。大変満足だ。大いに頑張ってメンバーであるという自覚の鏡に自らの姿を映し、経営者としての道に迷いない自信を持ち、実行したいと考える。多勢の優れた友人を得ることは企業にとっても大きなプラスだし、業界発展の為にも役立つと信ずる。』(一九六八年)
 中村氏から「知識産業としての第4次産業、情緒産業としての第5次産業」という分析を聞いたのは70年代の後半で、まさに一足早く時代を読んでいたと言っても良いと思います。

「ジョージ・ルーカス氏とも会談」−遊びを大きな観点から捉える

 もう一つ、忘れられないことがあります。
画像 これは日本工業新聞に入ってから聞いたのですが、「米国に行って(世界的に有名な)映画監督のジョージ・ルーカス氏に会って話をした…」という内容でした。それを聞いた時に、恥ずかしい話ですが、筆者はゲームと映画が頭の中で、すぐには結び付きませんでした。その後の中村氏の活動を見ると、これは非常に大きな意味のあることで、ここにも「アミューズメント(遊び)を大きな観点から捉える」という中村氏の基本的な思想があるように思います。しかし、当時の私はそれを理解できませんでした。

「九十九貨店」−潜在ニーズを察知する起業家の発想と強い意志

 「夢を売る男になりたいねえ」には、『私が有限会社中村製作所を創業したのは、一九五五年 私はまだ齢三画像十でした。』『まだ「遊び」が世の承認を受けられなかった時代に、「遊び」の事業化を志し、それを生業として生きる決意をするのは、正直に言って勇気のいることでした。…この世界に正に徒手空拳で飛び込んだのです。』『最初は百貨店の屋上に二台の木馬を置き、一回五円でお客様に楽しんでいただくことからのスタートでした。』といった文章があります。
 ここに中村氏の経営者としての志、理念、姿勢を強く感ずることができ画像ますが、次のような文もあります。
〜百貨店に遊びがないのは九十九貨店だ〜 (三越百貨店岩瀬社長(当時)へ) 『昔なら手討ちになるところだけど、そこまでされることはなかろう、と思ったわけ。』
 中村氏は時々、中国の古典を引用しながら話をすることがありましたが、「九十九貨店」には、中村氏の言葉に対する思慮、考察の深さとともに、社会の新しい動き、需要、さらに言えば、潜在ニーズをいち早く見つけ出し、マーケットを創るという起業家の柔らかい発想と強い意志、執念があるように思います。その柔らかい発想の裏に、“遊びの精神”があるのでしょう。
画像 最後に「お別れの会」の様子を、このブログ「ベンチャー温故知新」に書くのがいささか遅くなってしまいました。中村氏の思想を十分に理解できなかったことと合わせ、すみませんでした(合掌)。







            日本コンピュータ・ダイナミクス株式会社(リンク)
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