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zoom RSS ケーエスエスの太田芳文 相談役の葬儀・告別式−精密ミニチュアボールねじで同社をオンリーワン企業に発展

<<   作成日時 : 2017/06/05 12:00   >>

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 多くの人が遺徳を…喪主・晶久氏「賑やかなことが好きだった」

 精密ミニチュア(超小型)ボールねじのメーカーであるケーエスエス株式会社(東京都大田区矢口)の太田芳文 相談役(前・社長、会長)が5月22日、84歳で逝去され、6月1日に桐ヶ谷斎場(東京都品川区西五反田)で画像ケーエスエス(以下、KSS)と太田家の合同葬儀・告別式が行われました。多くの人が参列し、故人の遺徳、経営者としての実績を偲びましたが、最後に会葬御礼の挨拶をした喪主で長男の太田晶久氏(同社・代表取締役社長)が柩にやさしく手を置いた後、「父は賑やかなこと、人と話をすること、新しいことが好きで、会合の世話役などもして、そうした会合で聞いたり、話し合ったことを、よく会社で従業員に話していた」としみじみと語ったのが筆者(松浦)の心に強く残りました。

筆者は1980年代前半に初訪問、すでに小千谷工場建設を決断

 私も太田芳文氏を思う時、浮かんでくるのは、笑顔ばかりです。東急多摩川線「武蔵新田」駅近くのKSS本社に初めて行ったのは、私が日本工業新聞(フジサンケイ  ビジネスアイ)に入った1982年か翌83年で、当時は芳文氏より年長で、東京測範(現・日本電産トーソク)のねじゲージ(ねじの寸法をgauge=測定する器具)の技術者だった篠原忠義氏が社長、芳文氏は専務でしたが、ともに代表取締役だったと思います。
 お二人は取材に訪れた私を丁寧に迎えてくれましたが、その時、篠原氏は技術者・技能者、芳文氏は大田区画像の工場経営者としては、ちょっと異質な感じの人だなという印象を受けました。
 この“ちょっと異質”ということが、その後のミニチュアボールねじのシリーズ化、それも、短納期(即納)の標準品と軸端の形状を自由に設計・加工できる受注品の両方を生産・販売するという新しい発想を生み出す基(もと)になり、同社を大きく発展させましたが、私が初めて同社を訪れた頃に、芳文氏は新潟県小千谷市の工業団地の土地を購入。工場を大田区から移転する決断をしていました。
 当時の本社にあった生産部門(工場)は、油の匂いがする中で比較的高齢の職人さんが中心になって働いていましたが、大田区の中小製造業には若い人がなかなか集まらず、人手不足が深刻化すると予想されていました。小千谷市への進出は、まさにこれに先手を打っただけでなく、地元の若い人を雇うことで、地域経済への貢献にもつながるものでした(右上は拙著「ベンチャー独立宣言U 平成・新起業家列伝」=2002年4月 ケイブン出版発行。「ベンチャー独立宣言」はXまで刊行)。

地元農業高校卒業生を採用-中越地震も取引先の支援等で克服

 実際に小千谷市工場の人材確保について、芳文氏は「工業高校にこだわらず、地元の農業高校にも出向いて画像(当社への)就職を依頼している」「農業高校を出たからと言って、必ずしも農業に従事する人ばかりではない。農業高校の卒業生も丁寧に教えれば、ボールねじに関する技術を習得できる」とよく言っていたものでした。
 筆者は1994年に日本工業新聞を辞めて独立し、フリーランスになりましたが、日本工業新聞を辞めた後も、大田区の本社だけでなく、小千谷工場にも芳文氏の案内で行き、「ベンチャー独立宣言U」や日本工業新聞の連載に書かせていただきました。
 また、2004年10月23日に起きた新潟県中越地震の後に、現在の晶久社長の案内で小千谷工場に行き、日工フォーラムの連載「日本の製造業を支える中小企業 モノ&ストーリー」にも、地震直後の状況も含めて書かせていただいています。この時は、取引先等の支援とともに、社員1人1人の努力で震災の被害を乗り越えたことを晶久社長が技術者らしく几帳面に、熱のこもった口調で話してくれました(左上の記事=2006年8月号、同連載は現在も継続)。

手作業も駆使し世界最小ボールねじ−外径1.8mm、リード0.5mm

 数回、訪れた小千谷工場では、最新の工作機械が稼働するとともに、ツール(工具)を使って精密ミニチュアボールねじの軸とナットの溝を手で研磨して、ねじゲージで寸法を確認。ナットの内部を循環することにより、軸とナットの摩擦を緩衝する小さな鋼球も1つ1つ手で入れていく作業などが、きれいで明るい工場のフロアでされていたことを鮮明に憶えています。
 同社はボールねじとモーターを一体化したアクチュエータなどのユニット、システム部品も開発・製造していますので、製品についての詳しいことはホームページを見て下さればと思いますが、同社が開発した世界最小のボールねじは、外径(軸の直径)が1.8mm、リードが0.5mmというまさにミニチュアです。

百貨店に勤務-紳士服売場での経験活かしボールねじを標準化

 こうした精密ミニチュアボールねじは半導体等の製造装置や医療機器などを正確にコントロールするという“縁画像の下の力持ち”の役割を果たしていますが、実は芳文氏は、「ミニチュアボールねじの標準品化による即納体制」を百貨店の売り場での経験から着想しています。
 芳文氏は1956年(昭和31年)に早稲田大学第一商学部(現・商学部)を卒業して、京都に本社を置く百貨店に入社。同社の東京進出に伴い、東京に転勤しましたが、この東京の店舗が他社に吸収合併されたこともあって、68年に退社。親戚の1人が東京測範の創業者であったことから、身の振り方を相談に行き、「モノづくりこそ、国に貢献できる仕事」と進言されて大きく方向転換。現在のKSSにつながる治具製作会社を設立しています。
 標準品化は百貨店で紳士服売り場を担当していた時に、「紳士服にはオーダーメイドとレディーメイドがあるが、レディーメイドは裾や袖の長さを調節するだけで、すぐに着ることができる」と現場で実感し、「ボールねじもレディーメイド化すれば、ユーザーに便利だ」と考え、実践したと言っていました。
 “小売業からモノづくりへの転換”――「ちょっと異質な感じ」はここからきていたのだと思います。小千谷工場の土地を購入した頃のKSSの従業員は30人ほどでしたが、今は155人(2016年12月現在)と5倍に増えています。
 その小千谷工場に案内していただき、芳文氏と昼食も夕食もいっしょにしたことがありました。その時、芳文氏は店の経営者や店員さんにも声を掛け、陽気に食べ、飲んでいました。まさに「賑やかなことが好き」だった――筆者も笑顔でお話しする芳文氏を思い出します。(合掌)
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〈晶久氏はまた、「病院のベッドに寝ている父に業績を説明すると、自由にならない手で数字に触れようとし、業画像績が良いと笑顔になった」と回想していました。「創業者は生涯経営者なんだ」と改めて感じます。
 筆者は都合で葬儀・告別式に遅れましたので、喪主の晶久氏以外の挨拶は、すみません、聞けませんでしたが、「THK様と保科製作所様から弔辞をいただいた」(晶久氏)ということです。また、葬儀委員長は太田貴久KSS取締役(営業担当)が務めていました。
 芳文氏、亡き後も、「きらりと光る」精密ミニチュアボールねじのメーカーとして、独自性を発揮し成長することを期待したいと思います〉
 日本コンピュータ・ダイナミクス株式会社
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